僕は、厳密な理論は、たいてい嫌いです

ごく希には、大変面白くかつ重要な、厳密な理論もありますが、大部分は嫌いです。

その理由を書きます。


※ 厳密な理論を、その実体以上にありがたがる風潮が、いよいよ強くなってきているように感じるので、それに警鐘をならすために書いたものです。だから、多少、断定的に、極端に書いている部分もあります。

※ 「厳密な理論をやっている人が嫌い」というわけではないです。 念のため。

※ 好き嫌いは、研究でも食べ物でも、個人の趣味嗜好の問題なので、以下の意見と正反対の事を言う人がいても、なんら不思議ではありません。念のため。

※ 厳密はきらいだ、というのは、いいかげんが好きだ、という意味ではないです。様々な考察から摂動や平均場近似で本質をえぐれそうだ、と思うところはそれですませばよく、もっと別の(難しい) 定理なりなんなりを 持ち出すのが効率的だと思うところは、それを使えばよい。 要するに、厳密性などということに心を奪われずに、臨機応変に、本質をえぐる努力をすべし、ということです。
 
 

1.実在の自然界に対しては、ひどく荒っぽい近似になっている。


今ここに、ひと固まりの物質があるとしましょう。その物質の性質を、予言なり分析なりするのには、まず、モデルをたてます。物性理論では、「原理的には、このハミルトニアンから出発すれば、だいたいのことは正しく記述できるだろう」と思われているモデルがあるにはあるのですが、これは、絶対に厳密になんか解けません。(たとえば、これが可解でないという証明はないけど、もしも可解だったら、熱力学が成立しないことになるので、そんな事はあり得ない。)

そこで、近似をすることになります。その際に、厳密さにこだわらない理論というのは、モデルの簡単化の段階でも、それに続く計算の段階でも、バランス良く近似を入れていこうとします。いわば、有効桁数を首尾一貫してそろえて計算しているようなものです。(もちろん、そういう注意を払っていない論文もありますが、どの分野でも、下を見たらきりがないから、下の方は切り捨てて議論しないと意味がない。)

それに対して、厳密な理論では、モデルの簡単化の段階で、解けるようにするために、非常に(厳密さにこだわらない理論よりもずっと)粗い近似をして、極端なモデルに変えてしまい、その後、厳密な計算を遂行します。だから、いわば、最初の一回だけ有効桁数1桁の計算をし、その後は小数点以下無限次まで注意を払って計算しているようなもので、バランスが悪い。

もちろん、「普遍性を信じれば、このモデルの結果は、広く当てはまるはず」という言い訳はできますが、現実の物質では、組成なり、作成条件なりをほんの少し変えるだけで物性が劇的に変化することは珍しくないので、劇的に簡単化されたモデルの結果が、モデルをほんの少し現実に近づけたとたんに変わってしまう(つまり、普遍性がない)ということは、充分あり得ます。だから、たいていの厳密な理論は、現実の自然界の記述としては、かなり荒っぽい近似だと言わざるをえません。普遍性が証明できない以上、厳密性にこだわっても仕方がないと思います。
 
 

2.物理の理論の一番面白いところは、推理や想像力にある。


アインシュタインの光量子仮説の論文でも、ランダウのフェルミ流体理論の論文でも、BCS理論の論文でも、あのような天才的な結果は、決して厳密に導かれてはいません。むしろ、厳密性にこだわらないからこそ、あのような天才的な理論が提出できたのです。たとえば、電子-格子相互作用の現実的なハミルトニアンから厳密に超伝導を導くことは、未だにできていません。たとえば、電子間引力相互作用のレンジを無限大にするような、非現実的なモデルにしてしまえば、数学的に厳密な論理展開はできますが、そのようなモデルでの厳密な理論が、BCS理論より優れていると思う人は少ないでしょう。
 
 

3.厳密性を保つために、本質をそぎ落としてしまう理論が少なくない。


たとえば、統計力学と熱力学を繋ぐキーポイントと目されている「混合性」を厳密に示した、と主張する論文がある。それは、無限の大きさの系を仮定しているが、無限大の系では、今の場の理論では、局所的な disturbance しか扱えない。そこで、局所的な disturbance に限定して、混合性があることを厳密に示している。しかし、熱力学と繋ぐためには、系全体にマクロな disturbance を与えたときにどうなるかが問題である。したがって、この厳密な理論で証明された混合性は、ほとんど意味のない混合性である。実際、その物理的意味は、「無限に広い空間を局所的に励起しても、やがてそれが広がって薄まって見えなくなってしまう」という、あたりまえのことを言っているにすぎない。
 
 

4.厳密な理論は、すでに解っていることを、単に数学的に確認するだけのことが少なくない。


これは、歴史が証明しています。
 
 

5.厳密な論理展開をしようとすると、多くの部分が、細かい技術的な議論に費やされることが少なくない。


たとえば、厳密な論理展開をしようとすると、病的な例外を排除するための作業に多大の労力とページ数を使います。
 
 

6.物理の記述に数学を用いるのは、厳密な議論を展開するためではない。


「物理の記述に数学を用いるのは、厳密な議論を展開するため」というような趣旨の発言や記述をよく見かけます。しかし、それは誤解だと思います。もちろん、可能なときには厳密な議論もできる、というのはメリットのひとつではありますが、上に書いたように、自然はそんなに甘くなく(というより、trivial でなく)、ほとんどのことについて(基礎方程式は判っていても)厳密な議論は(たぶん原理的に)不可能です。だから、「厳密な議論を展開するため」などと考えてしまうと、自然科学としての物理学の存在意義がよく判らなくなってしまう。筆者の考えでは、物理の記述に数学を用いる最大の理由は、他に適当な言語がないからです。たとえば、2で挙げたフェルミ流体理論やBCS理論は、ものすごく重要で有益な理論ですが、決して厳密な理論ではない。しかし、これらの理論を記述する術を、数学以外には我々は知らない。だから数学を用いるのです。
 
 

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