物理学は、自然現象について、できるだけ簡潔かつ普遍的な見方を見いだそう、という学問である。ここで、「普遍的」というのは、ひとつの見方が、非常に広い範囲の自然現象にあてはまる、ということである。たとえば、「星々の運動と、地球の上でリンゴが木から落ちることが、実はまったく同じ法則で記述できるのではないか」という見方をしてみる。そして、そのことを、数学を用いて曖昧さなく記述してみる。すると、驚くべき事に、星の運動もリンゴの運動も全く同じ方程式で記述でき、しかもその方程式が、大変に簡潔な形をしている。これが、簡潔かつ普遍的な見方である。しかも、そのようにすると、星でもリンゴでも、その運動についての観察や実験の結果が説明できるだけでなく、まだ観察や実験をしていない未来のこと(例えば、今から100年後の月や星の位置)まで予言できてしまう。
物理学の発展というのは、基本的には、このような普遍的な見方を、より広い範囲の自然現象に拡大していこう、ということである。例えば、「力学」という物理の理論は、星やリンゴの運動は記述できても、原子のような極微のサイズの物質の運動は記述できなかった。その理論を、20世紀の初め頃に、「量子力学」という新しい理論に修正することによって、星のような巨大な物体から原子のような極微のサイズの物体まで、すべて同じ方程式で普遍的に記述できるようになり、物理学は大きな発展を遂げたのである。
普遍的な見方を広い範囲に拡大していく方向としては、2つある。ひとつは、「還元主義」的な方向である。これは、すべてをその構成要素に分解していって、究極的な構成要素を理解することによって自然現象を理解しよう、という行き方である。この方針に従って、まず、物質が原子で構成されていることが解明され、続いて、原子が原子核と電子で構成されていることが解明された。次いで、原子核が陽子と中性子で構成されていることが解明され、さらに、陽子も中性子もクオークという粒子で構成されていることが解明され…と、どんどん「ミクロ」(非常に小さいという意味)な方向に分解が進んで、現在ではさらにもっとミクロな、究極的な構成要素ではないかと目されるような要素を探る段階まで来ている。
単純に考えると、この分解を押し進めて、究極のミクロな構成要素が判ってしまえば、それですべてがわかるように思うかもしれない。実際、そう書いてある本も見かける。しかし、自然はそんなに甘くはない。たとえミクロな構成要素の従う方程式が判ったところで、その方程式は、ごく限られた場合にしか解けない。教科書や問題集では解ける場合しか載せていないので、つい、どんな問題でもがんばれば解けるような錯覚に陥ってしまうかも知れないが、現実の自然現象と向き合うと、その大多数は、構成要素に対する方程式は書き下せても、その方程式が解けないのである。しかも、解けない理由は、人間の数学能力が未熟なためではなく、原理的に解けないのだ。つまり、将来どんなに頭の良い人類が登場しようが解けないのだ。従って、究極的な構成要素が判っても、それは確かに大きな進歩ではあるが、決して物理学を万能にはしてくれないのである。
これは、一見すると、絶望的な状況に聞こえるかもしれない。しかし、驚くべきことに、原理的に解けないために、かえって別の法則性が現れることがわかった。絶対に解けないのは、多数の粒子が衝突を繰り返すために、個々の粒子がほとんどでたらめな運動をする(そのことを「カオス」とも言う)からだ。しかし、でたらめということは、確率論(さいころをふるような事を数学的に定式化した理論)を使って記述できることになる。その結果、個々の粒子の運動は予言できなくても、粒子の集まり全体としての平均的な運動は、簡潔な法則で普遍的に記述できてしまう事が解ったのである。このように平均のふるまいに着目するという見方が有効なのは、きわめて多くの(0が10個以上並ぶような大きな数の)粒子からできている物体である。そのような物体を「マクロ系」と呼ぶ。我々が普段目にするものは、ほとんどすべてマクロ系である。マクロ系には、還元主義の考え方では容易に近づけないような、質的に異なる普遍性があるのである。このマクロ系独特の普遍性を、より広い範囲の物体や現象に拡大する方向が、物理学の2つめの方向である。
さらに、物理学を広い範囲に拡大してゆくというのとは、少し別の方向もある。それは、すでに確立された物理学を様々な物体に適用してゆく、という方向である。つまり、様々な自然現象を、すでに確立された物理学で理解しよう、という事である。実は、この方向で研究をしている物理学者の数が一番多い。その豊富な研究結果によって、確立された物理学の意味するところが深く解ってくるので、決してこの方向が上記の2つの方向に比べて劣っているわけではない。実際、この方向の研究がきっかけになって、上記の2つの方向の研究が飛躍的に発展した例は非常に多いのである。
以上をまとめると、物理学は、自然現象について、できるだけ簡潔かつ普遍的な見方を見いだそう、という学問であり、物理学の発展というのは、基本的には、このような普遍的な見方を、より広い範囲の自然現象に拡大してゆくことである。その拡大の方向としては、還元主義的なミクロな方向への拡大と、還元主義では行き着けないマクロ系の普遍的な見方を追求する方向がある。そして、これらとは別の第3の方向として、様々な自然現象を、すでに確立された物理学で理解しよう、という方向もある。
個々の分野について、もう少し具体的に紹介しよう。物理学として、19世紀末までにほぼ確立したのは、「力学」(物体が力を受けて運動する様を記述する)、「電磁気学」(電気や磁気や電波や光のことを記述する)、「熱力学」(熱が絡んでくる現象の物理学)「流体力学」(液体や気体が流れる現象の物理学)などであった。20世紀に入ると、新しい実験結果や新しい考え方に触発されて、新しい物理学が怒濤のように作られることになった。まず、力学が、物体の速度を光の速度に近いぐらい速めると破綻することが解り、アインシュタインの「特殊相対論」に改められた。言い換えると、力学よりも特殊相対論の方が適用対象が広く、前者は後者の近似理論(物体の速度が光の速度に比べてずっと遅いときだけ、後者とほとんど同じ結果を与える理論)と考えられるようになった。さらに、重力についても、ニュートンの万有引力の法則は重力が非常に強いところでは破綻することが解り、「一般相対論」に改められた。その結果、宇宙の大規模な空間や時間の構造も議論できるようになり、やがて、観測結果の蓄積と結びついて、「宇宙論」の研究が進んだ。一方、力学は、原子などのミクロな物体でも破綻する事が解り、「量子力学」が作られた。ついで、電磁気学も、光が弱い時には破綻することが解り、光の量子論が作られた。そして、この理論を拡張して、量子力学と特殊相対論を融合した「場の量子論」が作られた。今日では、素粒子(光、電子、陽子、中性子、クオーク等)は全て場の量子論で記述できると考えられていて、それを研究する分野を「素粒子物理」と呼ぶ。素粒子物理学の最先端では、さらにミクロな究極の構成要素を追求して、場の量子論と一般相対論を融合した究極のミクロな理論を作ろうとしている。一方、マクロ系を研究対象とする物理学のはしりが、熱力学、流体力学である。やがて、熱力学と(力学や量子力学などの)ミクロな物理学の橋渡しをする「統計物理(統計力学)」が作られ、ミクロ世界からマクロ世界への繋がりが見え始めた。しかし、熱力学も統計物理も、完成しているのは、「平衡状態」という特殊な状態にあるマクロ系に関する部分だけであり、「非平衡状態のマクロ系の物理学」が、物理学者の大きな目標になっている。一口に非平衡状態と言っても非常に広く、普通の物質の非平衡状態の研究(「非平衡統計物理」)も含まれるし、生命現象の研究(「生物物理」)なども含まれる。生命現象や分子量の大きい物質の化学反応は、単にマクロで非平衡というだけでなく、旧来の物理学の対象に比べるとはるかに複雑である。このような、部分と全体がお互いに影響し合うような複雑なシステムを扱おうとする物理学として、「複雑系」も盛んになりつつある。また、量子論と情報理論とが融合した、「量子情報理論」という新しい分野も急速に発達しつつある。さらに、経済現象とか交通流などまで、物理学の守備範囲はどんどん拡大している。このように、旧来の物理学の対象には含まれなかった様々な分野に物理学の対象が大きく広がっていくのが、最近の物理学の流れのひとつになっている。つまり、物理学者以外の人たちしか研究してこなかった分野にも、物理学の考え方(普遍性や論理性)を持ち込む事によって、新しい地平を開こうという試みである。他方、すでに確立された物理学で様々な物質や現象を理解しよう、という方向としては、「原子物理」「原子核物理」「量子エレクトロニクス」「量子光学」「プラズマ物理」「物性物理」等がある。特に、物性物理(「凝縮系物理」とも言い、「固体物理」などを含む)は、応用に近いこともあって、最大の研究者人口を擁する分野になっている。
物理学と、他の理学系の学問との違いも述べておこう。生物学や化学との違いは、物理学の対象が拡大するにつれ、扱う対象では区別できなくなってきている。実際、「生物物理」とか「化学物理」とか「分子物理」とかが物理にもある。ではどこが違うかというと、ひとつには、物理学では、最初に述べたように普遍性を強く追求することである。それに対して、生物学や化学では、個別の対象の示す特殊性にもかなり興味があるように思う。もうひとつは、物理学では「論理性」が強く要求される点である。必ず論理で分析し、理解しようとする。だから、たとえ既存の物理学では理解できない現象に出会ったときでも、なぜその現象が既存の物理学では理解できないのかを、論理的に記述して論文にする。単に「こうやってみたらこうなりました」というような論文は、物理学では普通は受け入れられない。この普遍性と論理性のために、いったん物理学の土俵にのりさえすれば、物理学は非常にパワフルである。物理学的裏付けがあればしらみ潰しに調べる必要がなくなったり、実験がほとんど困難な状況での現象を断定的に予言できたりするのである。しかし、強みと弱みは裏腹であり、うまく(現在の)物理学の土俵にはのらないような問題については、生物学者や化学者の方がずっと早く解決できたりする。どの学問にも強みと弱みはあるのである。ちなみに、会社に就職した場合でも、こうした強みと弱みはそのまま引きずる傾向があるようである。ところで、論理的というならば、物理学は数学に近いのか?実はそうでもない。物理学はあくまで自然現象を相手にするので、いくら数学的に厳密であっても、自然現象を記述できなければ価値がない。従って、数学的に厳密だが実験とは合わない理論よりも、数学的には未知の部分があるものの実験と合うような理論の方が、物理では価値が高い。論理を重視するとは言っても、そのくらいの柔軟性は持っているのが物理学である。
最後に、大学(大学院)を選ぶときの注意とアドバイスを書いておく。まず、物理学のすべての分野をカバーする(全ての分野の専門家がいる)大学(大学院)は、日本にも外国にもひとつもない、という事である。例えば、筆者の出身の東京大学理学部物理学科は、比較的規模が大きい学科だが、それでも全分野の半分もカバーしていないと思う。さらに、筆者も所属しているその上の大学院(東京大学大学院理学系研究科物理学専攻)は、約130名もの物理の先生を抱える巨大な専攻だが、それでもカバーしていない分野は少なくない。また、たとえ自分の希望する分野の先生がいたとしても、その分野の中のどういう部分をどういう方向で研究しているかは、人さまざまであるから、自分のやりたいことと合わないことも充分ありうる。また、物理学は高度に発達したため、高校生(大学生)の段階で、自分のやりたい分野を決めるのは、非常に難しいということも強調しておかねばならない。高校生(大学生)の知識では、すでに研究が終わってしまった分野(例えば高校生だったら特殊相対論、大学生だったら本屋に山積みになっているような本の内容)の研究をやりたいと思う、という事になりがちだからである。また、学部の4年間で最先端の物理学を学んだり研究したりすることは不可能だ、ということも注意しておかなければならない。きちんと学ぶのは、せいぜい20世紀前半までの物理学どまりであり、最先端の内容は素人向けの「お話」として紹介される程度である。従って、本格的に物理学をやるためには、大学院に進む必要がある。そして、大学院の門戸は広く開放されており、大学院進学の時点で他の大学へ移ることは自由である。(大学によっては、他大学の大学院を受けるときに多少の制限を課す所もあるが、最終的には個人の自由である。)だから、大学(大学院)はできるだけ広い範囲をカバーする大学を選んでおいて、そこで物理学の様々な分野を学んだり先生に話を聞いて自分のやりたい分野を決め、大学院へ(あるいは修士課程から博士課程へ)進学する段階で、その分野の研究をやっている先生のいる大学院に進むのが良いと思う。もちろん、大学院の先生(指導教官)を選ぶにあたっては、直接その先生に会いに行って話を聞くべきである。そういう用件なら、どんなに偉い物理学者でも(研究を引退していなければ)会って話をしてくれるものである。