拙著「統計力学の基礎」についてのメモ
清水 明
last update:
筆者は,いわゆるSNSをやっていません.
対面の時はおしゃべりで,たとえば,ある若い先生が着任したお祝いのときに,筆者と友人(同級生のKKです!)がしゃべりまくって,肝心の若い先生の話がほとんど聴けなかったじゃないか,という苦情を受けたこともあるほどです….
でも,なんかSNSを使う気にはなれないのです.
ただ,それでは,このご時世にあっては,情報発信不足かもしれません.
そこで,せめてここにランダムにメモを置いておこうかな,と考えました.
現代的な教科書なのに,ETH (Eigenstate Thermalization Hypothesis) が出てこないのは何故ですか? 2024/10/14
-
平衡統計力学にはETHは関係ないからです.ETHと平衡状態の典型性は混同されがちですが,まったく別物なのです.
-
平衡状態の典型性は,定理5.1にもあるように,「energy shellから何もバイアスをかけずにミクロ状態を選び出せば,それは熱力学極限で100%になる確率で平衡状態だ」と言っています.裏を返せば,たとえば「エネルギー固有状態を選べ」というバイアスをかけたら,平衡状態であるとは限りません.
-
それに対して,(strong) ETHは,「エネルギー固有状態を選べというバイアスをかけたときに,それらはすべて平衡状態だ」と言っています.(もちろん,別のバイアスを書けたら非平衡状態も得られるので,あくまで,「そういう特別なバイアスをかけたときに」ということです.)
-
ですので,両者はまったくの別物です.とくに,可積分系では,ETHは満たされませんが,平衡状態の典型性は満たされます(その結果,8.6節で述べたように,可積分系にも平衡統計力学が適用できます).
-
統計力学には平衡統計力学と非平衡統計力学がありますが,教科書のタイトルに単に「統計力学」と書いてある教科書は,平衡統計力学を扱っています.
-
本書もそうですので,非平衡統計力学は,3章の後半(3.5節,3.6節)で平衡緩和について簡単に述べている箇所だけです.ETHは,その平衡緩和に関係づけて議論されている,様々な事項のうちのひとつです.
-
その3.5節の冒頭で述べたように,
熱力学(平衡熱力学)では,平衡緩和は要請I-(i)により仮定されているので,異なる平衡状態の間の遷移も平衡熱力学で扱うことができます.
それに対して平衡統計力学では,平衡緩和は非平衡統計力学の対象であり,平衡緩和した後の平衡状態だけを対象としています.
-
ETHと関係するのは,3.6.3項の最後の2段落です.
ただし,これがETHと完全に対応するわけでもありませんし,
最後の段落に書いたように,初期状態として許す範囲次第で結論が変わるし,普遍的な結果を得るのはきわめて難しいので,まだ十分に解明されたとは言いがたいのが現状です.そこで,ETHのような個別の説には触れずに,全体的な傾向として考えられていることだけを書きました.
基本原理Aの,平衡状態の典型性って,新しい話なのですか? 2024/10/08, 09
-
いいえ.それを明記した教科書が出版されたのは,僕が知る限り(=だから,他にもあるかもしれない)では田崎さんの教科書が初めてだと思いますが,それ以前から,一部の物理学者は当然のこととして知っていました.
-
その「一部の物理学者」として,
僕が確認できたのは,僕と田崎さんだけでしたが,きっと他にもいたのではないかとは思います.たとえば,Boltzmannはきっと気づいていたに違いないと,5.2節を書いているときに思いました.
-
ただ,Gibbsによるアンサンブル形式が計算手法として定着してからは,平衡状態の典型性を知る人は,きわめて少なくなってしまった.このように計算だけに集中してしまうと本質が見えなくなるのは,物理ではよくあることです.たとえば,量子論が確立してから,ほとんどの人がその応用に向かったためにベルの不等式の発見まで数十年もかかった.それと同様に,ほとんどの人がアンサンブル形式で計算して応用することに向かったために,統計力学の本質が見えにくくなってしまっていたわけです.
-
それは,トップ研究者ですら同様でした.
たとえば,僕の最終講義のスライドのp.37に書いたように,平衡状態の典型性について本質的な論文を出版された杉田さん(大阪公立大学)も,昔は,Gibbs状態だけが平衡状態だと考えていたほどです.数理物理の4人の神々の一人であるE. Liebさんですらそうだったそうです.ここ十数年の間に急激に認知されるようになりましたが,それ以前は,悲しいぐらいに知られていなかったのです.
-
「じゃあ,おまえはどうして知っていたんだ?」と質問したくなると思いますが,少なくとも人に習ったり文献で見た覚えはないのです.たとえば,僕は学部の3年生のとときに,久保亮五先生に統計力学を習いましたが,平衡状態の典型性はまったく出てきませんでした.ですので,僕の場合は,「いろいろ考えているうちに気づいた」としか言いようがないです.
-
そういうわけで,僕は,駒場で統計力学の講義をときどき担当するようになったときには,最初(20年ぐらい前)から,平衡状態の典型性を教えていました.ただし,用語は適切なものがなかったので,今回の本で「energy shell」と呼んだものを「ミクロカノニカル集団」と名付けて講義していたので,紛らわしかったかもしれません.(だから,今回の本では,呼び方を変えました.)「平衡状態の典型性」という呼び方も,米田君のアドバイスで今回の本から採用した呼び方であり,講義では別の呼び方をしていました.
古典系から入るのが意外なんですが? 2024/10/07
-
これは,「量子オタクの清水なのに,12章までは古典系に見える」ということだと思います.
-
しかし,実際には,基本原理を述べた4,5,6章は,量子系にも古典系にも共通する普遍的な原理を述べています.
-
1,2,7,9,10,11章も同様に,量子系とも古典系とも限定していません.
-
12章も,章タイトルには「古典粒子系」が入っていますが,タイトル後半の「局所物理量の分布関数」の部分(12.4節)は,やはり.量子系とも古典系とも限定していません.
-
つまり,古典系に限定しているのは,その限定を明示的に宣言している箇所(3章,8章と,12章の一部)だけであり,他は,量子系でも古典系でも有効な内容ですので,ご安心下さい.
-
むしろ,8.1節で述べたように,量子モデルと古典モデルのどちらを選ぶかは目的次第で自由だよ,ということを強調しているつもりです.
-
13章になって「量子論」が出てくるのは,具体的な応用を説明するためにここで復習しただけのことであり,それ以前の章の記述も量子系でも通用するように書いているのです.
この本,厚くないですか? 2024/10/02
-
筆者も,本文が398ページになったのを見てビビりました.
-
ただ,筆者が重要だとか核心だとか思っている事項を初学者でも理解できるように丁寧に書いていたら,このページ数になりました.
この内容を,初学者でも理解できることを保ちつつ,これより短く書くことってできるんでしょうかね?
-
「そりゃ,おまえの説明能力が低いせいだ」と言われそうなので,
巻末に挙げた推奨図書である田崎さんの本と比較してみました.
-
個々の事項の詳しさに濃淡はあるものの,
田崎さんの本の,拙著第I巻に相当する部分を同定するのは容易で,
田崎さんの本の第II巻のp.417までが相当します
(ページ番号は第I巻からの続き番号になっています).
-
したがいまして,田崎さんの本も拙著も,ほとんど同じページ数を要しているわけです.
ということは,重要なことをちゃんと説明したら,誰が書いてもこれぐらいのページ数になるのではないかな,と思っています.
-
ただし,田崎さんの本と拙著の違いは,
上記の「個々の事項の詳しさの濃淡」だけではないです.
田崎さんの本は,4.1節以外は「カノニカル分布を使い倒す」(ご本人の弁)方針で書かれています.つまり,カノニカル分布とその応用に重きを置いています.
-
それに対して拙著は,マクロな精度や、平衡状態の定義と特徴などの,より基礎的な内容に重きを置いて,カノニカル分布とは異なる平衡状態(5.2.4項,5.3 節,18.3.2 項など)に遭遇しても戸惑うことがないようにしています.
-
「じゃあ,どっちを買えばいいの?」と訊かれても,「あなたの目的次第です」と答えるしかないですが,僕だったら,田崎さんの本と僕の本の、両方を買うでしょう(実際,どっちも持ってます).「お金がない」と言われそうだけど,コスパは非常に高いと思います.たとえば,僕みたいに,スマホ(いちおうiPhoneです)を月額千円ちょっとのコースに変更すれば,差額で1〜2ヶ月に1冊ずつ買えるのでは?