訳書 1/11/28(水)
物理学会誌の編集委員会から、ある英語の本の訳書の新著紹介の依頼が来た。学会員の義務と思い、引き受けるつもりになったのだが、前に引き受けた一般向けの本ではなく、物理の教科書なので、「訳書ではなく原著について書きます」という返事を出した。そうしたら、「学生のために訳書を紹介して欲しいという意見があり、その意見に添った方針で新著紹介をお願いしているので、訳書の方を紹介して欲しい」と言われてしまった。
僕は常々、学生さん達に、「物理の本は、もとが英語で書かれたものなら、原著を読むべし」と言っている。その理由は、
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翻訳というものは、本来、その本の内容を全て理解した上で、それを正確に、自然な日本語に置き換える、という作業だから、大変な労力がかかる。しかし、今、大学の先生達は忙しいので、翻訳にそれだけの労力をかける時間はないことが多い。それなのに、訳書がポンポン出てくる。結果は明らかだ。ひどいときには、学生にアルバイトで訳させたりしているらしい。(もっとも、とびきり優秀な学生が訳せば、先生が訳すよりも優れているだろうが、そんな優秀な学生が訳を担当する確率は低い。)
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いずれ英語の論文を読み、英語で論文を書くようになるのだから、原著で読んで、最初から英語の表現になれておいた方が良いにきまっている。(読むのに苦労するのは読み始めだけですよ。)
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どうも、物理を表現するのには、英語の方が日本語よりも向いているように感じる。
などだ。もちろん、ごく少数の例外はある。「原著を徹底的に勉強し、誤りと思われる箇所は著者に問い合わせて了解を得た上で直した」というようなことが「訳者前書き」に書いてあるような訳書だ。そういう本は、原著よりも良い可能性が高い。しかし、そこまでやっている本はとても少ない。(ひどい場合には、著者には無断で付けたらしい訳注が、間違っていたりする。)
結局、上記の依頼の本は断ったのだが、そもそも、真に学生のためを思うなら、「原著を読みなさい」と言うべきではないのだろうか?しかし、当世では、学生のためにと本当のことを言うと嫌われるので、仕方がないのかもしれない。それに、どうせ、原著もいいかげんな本が増えてきたから、どうでもいい?(ただし、今回依頼された本はちゃんとした本でした。)