学生の頃、Mottの metal-insulator transition (電子相関による金属・絶縁体転移)のことを勉強したとき、おおいに悩んだ。それは、当時の自分が描いていた「理論」に対するイメージとはかけ離れた、隙だらけの議論だったからである。そして、悩んだ挙げ句、「これは理論ではない!」などと言い放っていたものだ。しかし、 metal-insulator transition は、現在でもなお固体物理学の中心的な問題のひとつであり続けるほどの、重要かつ難しい問題であり、この概念を創出した Mott の偉さを、今ではよく解る。
考えてみれば、Mott ほどは論理の飛躍が多くなくても、物理の重要な概念を創造した論文と言うのは、たいていは、隙がある論理展開をしている。例えば、光の量子化を発見した業績としてよく教科書にも出てくる(ノーベル賞も受賞した)アインシュタインの光電効果の理論だって、実はあのロジックでは光の量子化は導けないのである。(このことは、霜田先生や矢島先生が、いろいろな機会に述べておられる。)
つまり、僕が学生の頃にイメージしていた姿とは違い、物理の偉大な理論というのは、数学とは違って、論理に、明白な矛盾はないものの、隙がたくさんあるのである。つまり、「Aである。従ってBが言える。」と書いていても、ちょっと検討してみると、実は、AだからといってBとは言えないことに気付いてしまうような甘い論理展開をしているのである。あるいは、程度が低くて粗い近似として嫌われがちな、平均場近似による理論だったりする(例えばBCS理論)。
では、僕が学生の頃にイメージしていたような精密な理論というのは、どういうところに出てくるかというと、これらの偉大な創造的理論を受けて、その内容を精密化したり整理したりする理論たちとして登場する。これらの精密化の理論たちは、それはそれで大事なのだが、たった1本の創造的理論がなければ生まれてこなかった理論たちである。つまり、創造的理論は物理を一歩前進させ、精密化の理論たちは、その一歩を踏み固める役割を担っている。
この2種類の理論は、どちらも大事なので、それぞれの役割の価値を認めるべきである。ところが、現在の物理学会は、この点で大きな問題があるように思う。精密化の理論の価値は分かり易いし、査読も順調にパスしやすいので問題ないのだが、肝心の、創造的理論がなかなか価値を認められない傾向が強まっているように思う。その原因はいくつか考えられるが、そもそも、創造的理論と精密化の理論の区別がつけられない物理学者が増えているのではないか?創造的理論を精密化の理論のつもりで聞いたり、査読したりして、「論理に隙があるからダメだ」というような結論をすぐに出してしまう。(僕が、別項で、「厳密な理論はたいてい嫌いです」と書いているのは、こういうことも含めて書いているのです。でも、厳密な理論をやっている人は、好きだったりします(^_^))
僕自身の創造的理論はたいしたものではないが、やはりいくつか困った経験がある。例えば、数年前のことだが、電子・正孔系の超伝導を扱った理論で、平均場近似で驚くべき結果が出た。電子・正孔の間には、もともと強い引力が働いているので、電子・正孔相関がオーダーパラメータになるような秩序ができているとする。そのときに、電子がわずかに過剰だったとする。そして、何らかの理由で、電子・電子有効相互作用が引力になっているとする。すると、電子・電子相関もできて超伝導状態になるのだが、このときの超伝導ギャップの大きさが、電子・正孔相関のないとき(つまり、通常のBCS理論)に比べて、桁違いに大きくなることが解ったのだ。これは、クーパーペアを作るときの運動エネルギーの損が、電子・正孔相関のためにほとんどキャンセルされるという、今までの超伝導の常識からは考えられないことが起こるためである。そこで、これをPRLに投稿したのだが、査読者のレポートは、なんと、「本当だとしたら凄い。しかし、到底信じられないからダメだ。」というものだった。我々の計算は、平均場近似の範囲内では間違いなく計算されているが、それを「信じられない」というのなら、どうしようもない。(他の査読者は、昔からある、excitonic superconductorと区別が付いていなくて、これは論外。)僕の感覚では、到底信じられないことを(平均場近似とはいえ)示した論文だからこそ、真っ先に掲載すべきだと思うのだが…。なお、この論文には平均場近似以外にも隙があって、長距離のクーロン相互作用によって、この新しい相の不安定性が解消されると、荒っぽい計算で主張している。これも、ほとんど聞いたことのない主張(普通の物性理論の計算では、最初から電荷中性条件が満たされているとして、長距離クーロンは無視する)なのでこの論文の創造的なポイントのひとつだが、なぜかこの点をついてきた査読者はいなかった。(結局この論文は、JPSJ に出しました(業績リストの65番です)。)
本当にこんな相がありうるのかどうか(平均場近似は本質をはずしていないと思うが不安定性の問題が微妙なので)、僕自身が半信半疑だが、だからこそ、本当だったら面白い。「ああ、そういうことをそうやって計算したら、そうなるのはリーズナブルだねぇ」と簡単に納得できてしまう論文(ある程度物理の経験が蓄積されてくると、たいていの論文は、そういう論文だと解ってくるようになってしまいます)は、査読はパスしやすいが、全然面白くない。そう言えば、天才的な実験物理学者である清水富士夫先生も、似たようなことをおっしゃっていたなぁ…。(皮肉屋の先生は、「間違った論文が少なくて面白くない」という言い方をしておられたけど、おっしゃりたいことは、こういうことだったんだろうと思う。)
他にもいくつか経験しているのだが、それはまたそのうちに書くことにして、とにかく言いたいのは、物理の創造的理論は、数学のような隙のない論理とは違う、ということでした。おそまつさまm(__)m
田崎さんが、SSTの論文がなかなかPRLに通らない、ということを書いていた。それもこの一例かもしれない。前にも書いたように、現状のSSTは、数学としては整合していても、物理的には隙がずいぶん残っていると思う。それでも、僕がレフェリーだったら、そういう疑問点をさんざん書き並べた後で、「このように疑問点は多々あるが、しかし私にはSSTが誤りだと証明することもできない。従って、この意欲的な試みは、充分PRLに掲載するに値する。」と結論づけるだろう。しかし、上記のうような、創造的な理論と精密化の区別が付かないレフェリーだったら(これが多いんだな…)、リジェクトしようとするんだろうな。それで、面白くない論文が占める割合が多くなる…。
雑記帳一覧に戻る
清水のホームページに戻る
清水研のホームページに戻る