今朝、研究室に入るときに、金子邦彦氏とばったり会った。手には、カオスのデモでよく使われる振り子を持っていて、これから、文系の学生の選択科目である、「文系物理」の講義に向かうところだった。彼は、「文系の学生に、もう、セパラトリックスを理解させたぞ」と言って、さらに進んだことを教えるために、意気揚々と(うれしそうに)、講義室に向かっていった。駒場の学生は、金子邦彦氏から直接、カオスのことを、振り子で実演してもらいながら学べるわけで、考えてみれば、なんて贅沢なことだろうか。
この「文系物理」は、僕も数年間担当したことがあり、そのときは、量子論を一からきちんと教えた。つまり、まず、「自然現象は、日常言語だけではうまく記述できない」ということを教え、「そこで、量子論では、数学という言語で記述する」と教えた。そして、その言語として、ヒルベルト空間論を教え、有限自由度の量子論の論理体系をきちんと教えた。これは、たいていの大学の物理学科で最初に教える量子論の講義より、本格的だと思うが、本格的だからこそ、学生達の興味を引き、講義が進んでも、聴講者の数はほとんど減らなかった。そして、試験も、文系の選択科目なのに、計算問題を出し、なんと、8割以上が優をとった。試験の時に書いてもらった感想でも、こちらの狙いどおりに、学生たちは、「頭の中に論理として存在しているだけの抽象的な空間の言葉で、実際の自然現象が最もうまく記述できる」という事実に、相当強いカルチャーショックを受けたようだった。こういう講義を受けられるなんて、なんて贅沢なことだろうか。
さらに、今年は、あの、外へ出てゆくことが大嫌いな、わがままな、学習院の田崎さんに、「現代物理学」という講義名で、マクロ系の物理学を教えていただいている。これは、かねてから僕が田崎さんに、「東大の学生に、きちんとしたマクロ系の物理を教えてください」とお願いしていたのが実現したものだ。今までは、田崎さんの講義は、学習院の学生以外は、聴くことができなかったのに、わざわざ出かけてきて講義をしてくださるのだ。なんて贅沢なことだろうか。
それに、それと時を同じくして(講義時間は数時間ずれて)、僕も、基礎のところをきちんと説明する内容の統計力学の講義を始めた(※)これも、なんて贅沢なことだろうか。(←まだ、講義の準備を終えていないので、成功するかどうかわからない面もあり、小さい字にしました…(^_^;)
(※)普通の本は、いまだ解明されていない、平衡状態の存在や平衡状態への移行を、力学で説明しようする試みを前面に出して説明するから、訳がわからなくなる上に、ギッブス分布が実際の系の状態を表すという、とんでもない誤解を与える。こういうのは全て、熱力学の基本的仮定(特に、僕の講義ノートで言えば、仮定I)を認めるところを出発点にすれば、すっきりと説明ができる(この点、田崎さんとも大いに意見が一致したのでした)。
他にも、力学を米谷先生に習うとか、熱力学を佐々さんに習うとか、贅沢に満ちあふれている。
ある高名な評論家が、「自分がもう一度大学に入るとしたら、駒場の教養学部に1〜2年通いたい」と書いていたが、まさに、今の駒場には、それだけの価値のある講義がひしめいていると思う。しんじられないくらいに贅沢である。
マスコミや役所の方も、いろいろと批判する前に、講義を受けに来て下さいね。
追記:こういう「自画自賛」を書くと、当然ながら反発もあるようである。そこで、このような雑記を書きたくなった動機を記しておく。
最近は、講義内容の評価が大流行である。ここ、東京大学教養学部でも、学生に大々的なアンケート調査を実施して、講義の難易度などを訊いている。それ自体は良いことだと思うのだが、問題は、そのアンケート結果の使われ方である。今、物理系の講義は、学生が「難しい」と答える割合が一番高かった科目だったという理由で、やり玉にあがっている。ところが、同じアンケートで、半数の学生は全く復習していないことも判った。物理のような積み重ねの学問で、復習しないでも判る程度の事を教えろ、と言われたら、レベルをぐんと落とすしかない。そうすれば、「難しい」という批判は避けられるだろう。しかし、僕はこういう風潮に大反対である。難しいことを、教官と学生が双方努力して、なんとかものにする。そういう講義こそ、理想の講義だと信ずる。そういうことは、声を大にして言わないと、意味がない。自分や、同僚が、そういう講義をしているのであれば、胸を張って、声を大にして言うべきである。物理に限らず、「今の大学の講義はダメである。従って、改革しないといけない」という意見が盛んである。しかし、そういう批判をする人々は、はたして、学生時代に、すばらしい講義を探しもとめて聴き回っていたのだろうか?僕は、今の大学(すくなくとも駒場)の講義はそんなにダメではないと思う。自分や、同僚が、すばらしい講義をしているのであれば、胸を張って、声を大にして言うべきである。僕が上で引用した評論家の言葉は、大学の講義なんてろくなものがないという先入観を持っているインタビュアーが、日本の大学について否定的な事を言わせようとして問いかけたのに対して、評論家が、「そんことはないですよ」といって答えた台詞である。この評論家だけにまかせておいてはいけない。我々は、当事者なのだから、紳士然として何も言わないのは、犯罪的ですらある。
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