使われない公理  1/11/ 7(水)

質問があったので追記06/04/06:「その公理系が矛盾に陥ら ないために必要不可欠な公理」というのは、僕の量子論の教科書を 読んだ人には意味が分かるでしょうが、意味が分からないという質問メールがきたので説明します。次の意味です:公理A1,A2,A3,A4では矛盾が出た ので、A4の適用領域を制限してA4'とし、一方で、新たな公理A5をい加える。

量子論の公理(と言うか、基本要請)の中に、射影仮説がある。いわゆる、測定による波束の収縮である。(なお、量子論の公理のリスト は、(有限自由度系については)僕の講義ノートが 分かり易いかもしれません。)

ところが、プロの物理屋の中で、この公理を自分の論文の中で使ったことのある人の割合は、きわめて少ないと思われる。例えば、東京大学大学院理学系 研究科物理学専攻、同総合文化研究科広域科学専攻、同工学系研究科物理工学専攻に所属する全ての理論物理の教官を合計すると、すごい人数になるが、その中 で、この公理を自分の論文の中で使ったことのある人は、おそらく僕だけじゃないだろうか?(2001年4月現在)

しかし、この公理は、無くてもいいようなものではなく、量子論の理論としての整合性を保つために絶対に必要なので、量子論の建設者達 が、気持ち悪いとは思いながら、論理の必然として導入したものである。それなのにほとんど使われないのは、この「気持ちの悪い」公理を一切使わなくても、 過去1世紀の間、充分に面白い研究ができた研究分野が多かったからである。

しかし…である。今後もこれで良いのだろうか?例えば数学で、何かある公理系の性質を調べる(様々な定理を導く)のに、その公理系が矛盾に陥らない ために必要不可欠な公理のひとつを、まったく使わないで研究したら、どうなるだろうか?決してその公理系の真の姿を探ることはできないであろう。それと同 様に、物理学者の大多数が、射影仮説を使わない研究だけをやっているのは、あまり良いこととは思えない。

こういうことを書くと、「射影仮説を使って、何か実験結果に現れる事を主張できるのかい?」という質問が返ってきそうである。もちろん、でき る。例えば、量子光学という分野では、昔から、射影仮説を適切に使わないと、実験結果が説明できないことが分かっている。ここで重要なのは、単純 に射影仮説を使うのではなく、その正しい使い方を見極めて理論を展開しないと、決して実験と合わないことである。(他の分野でそういう考察が必要なかった のは、量子光学ほどコヒーレンスの良い量子状態をなかなか作れないために、そういう違いを見いだすような実験ができなかったのだ。)射影仮説を使う分野名 をもう一つ挙げると、近年盛んになりつつある、量子情報という分野がある。情報理論の中心的な仕事は、ものごとの限界に線を引いていく事にあるから、測定 後の状態がどうなるかは本質的に重要で、従って射影仮説は頻繁に使われる。実際には、射影仮説を拡張したPOVM測定というのを現象論的に導入する事が行 われているが、これは、測定器の一部を含む系に射影仮説を適用すれば得られるものであり、やはり基本公理は射影仮説なのである。

ともあれ、プロの物理学者の大多数は、射影仮説は、学生時代に読んだだけで終わっている。そのために、射影仮説を適切に使わないと理解できない事項 については、ほとんど何も知らないと思って良い。量子論の専門家なんだから、それぐらい理解しているだろうというのは、美しき誤解である。それを見るため には、手始めに(あまりに初等的ではあるが)次の例題を解いてみてもらってはどうだろうか?

問:x と p の不確定性関係は、δx δp > \hbar/2 である。さて、x と p を同時に測定したときの測定値のばらつきδx, δpの積の下限は、いくつでしょう?(\hbar = h/2π)

これを、\hbar/2 と答えたら、誤りである。上記の不確定性関係が言っているのは、x と p を別個に測定したときの測定値のばらつきδx, δpの積の下限であり、もしもx と p を同時に測定してしまったら、測定の反作用のために、不確定積は必ずもっと大きく(2倍に)なるのである。

まあこれは初等的すぎるので、正解する人も多いかもしれないが、そのうちに、ベルの不等式にからんだ、もっと難しい問題(量子光学の専門家達もかつ て誤っていた問題)を書こう。そうすれば、11月5日に書いた「量子論は操作をあらわに考えな いといけない」ということも、よりはっきり理解してもらえると思う。

追記 1/11/19(月):
上記のような基本的なことは、少なくとも僕に量子論を習う人にはきちんと教えておこう、と思い立ち、簡単な説明を、講義ノートの section 3.11 の終わりに書きました。この講義ノートは、まだまだ自分としては不満な点はあるものの、結構充実してきたように思う。出版を薦めてくれる人もすくなくない ので、出版することを前向きに考え始めた。ただし、出版が決まれば、Webで公開する訳にはいかなくなるが。

追記 2/04/03(水):
上の話とは直接は関係ないですが、雑誌「数理科学」で、量子論の基礎的な問題についての特集号(2002年 7月号)を出すから何か書け、と言われ、「量子測定の原理とその問題点」というタイトルで書きました。量子論にかかわる物理学者であれば誰 でもこういうことを議論できる、というならいいのですが、現実には、こういう話になると逃げ出したり、議論の中身を見ないで感覚だけで批判する人が多くて 哀しい…。数理科学という一般向けの雑誌ではあるけれど、量子論にかかわる物理学者であれば誰でも一読の価値があるような解説を目指して書いたんだけど、 ほとんど読まれないんだろうなぁ…。みんな、物理学科に入学してから何年経つと、こういうことに興味がなくなるのかなぁ…。