非平衡状態の標準モデル(1)


2007/09/24

 弓削君と僕は、伊藤伸泰さんにアドバイスをいただきながら、新しい電気伝導度モデルを提案し、その非平衡状態をMDで調べている。世の中で流行っている モデルとは違うので、特殊なモデルをいじっている変わった人たちだな、と思われることもあるようだが、僕の考えでは、これこそが非平衡状態を調べる標準モデルであり、(各種の理論の普遍性の有無をチェックする) リトマス試験紙でもあると思う。そのことを順を追って説明したい。

 前の雑記にも書いたように、物理学では、理論を作るときでも、自然現象をよく観察することがと りわけ重要である。(自然現象と無関係な応用数学的な議論は、科学として は意味があるのだろうが、自然科学ではない。) ところが非平衡状態は、それを詳細に観察することが難しい。渦を巻いたりしたらまだ特徴も見やすいのだ が、均一な非平衡定常状態という最も基本的な非平衡状態は、密度分布 も速度分布も(マクロに見て)一様で、平衡状態との違いは、パッと見では流れがあるかどうかぐらいしか見えない。もちろん、きちんと見れば平衡状態との様々な違いが見えてくるのだが、それを実験的に調べるのは、平衡状 態よりもずっと難しいのだ(*)。

 しかし、均一な非平衡定常状態をきちんと見ることができないようでは、理論を作る手がかりもないし、理論に用いた仮説の検証もできない。今はまだ、そう いう役に立つ観察事実が少なすぎて、理論を作れるような段階にないのではないか?そこで考えたの は、計算機の中で実験をしよう、ということである。計算機実験であれば、誤差に埋もれない範囲内では、何でも見ることが出来るからだ。

 そこで問題になるのは、その計算機実験に、どんなモデルを用いるかである。「minimalなmodelにしたい」というのはよいとして、「minimal」であるための必要条件は何だろう?

 ここで、お手本として、平衡相転移のminimal modelと目されている、Ising modelを思い出してみよう。噂によると、Ising modelを提案したのはIsingの先生だったらしいが、その動機は次のようなものだったという:

少数自由度系ならば、相転移のような振る舞いを示すモデルはいくらでも作れ る(少数自由度系に慣れていない人は、平均場近似で相転移が容易に出ることを思い出せばわかるだろう)。では、多自由度系で、最近接相互作用しかなくて、 有限温度でも、相転移なんて起こりうるのだろうか?有限温度ではエントロピーを増すためにスピンは乱れようとするから、最近接の相互作用しかなかったら、 短距離ではスピンが揃っていても、系全体を見たらバラバラにならざるを得ないのではないか?この疑問を調べるためのモデルに必要な要素は、
(a) 多数のサイトから成る、
(b) 最近接の相互作用しかない、
(c) 相転移の有無を直接的に記述するマクロ変数が(この場合は全磁化だから)明確、
である。これらを全て満たす最も簡単なモデルがIsing modelである。


 このように、見たい自然現象・答えたい疑問について、その本質的な要素 (上記の(a)〜(c))を列挙して、それらを全て満たす最も簡単なモデルをminimal modelとするべきである。Ising modelは、平衡相転移のモデルとしてはまさにそのようになっていたので、平衡相転移の基本的モデルたりえたのであった。

 平衡状態のモデルですらそうだったのだから、ましてや非平衡系のモデルの場合は、ただ何となくこれでいいだろうとか、こうすれば計算が簡単だから、とい うだけの理由でモデルを作ってしまったら、それがminimal modelになっている確率はとても低いと思う。

そこで我々は、まず上記の(c)に対応する、
(i) 非平衡であるか否かを直接的に記述するマクロ変数(つまり「流れ」)が明確である
を要求した。

 そうすると、そのマクロ変数として熱流を採用する気にはなれない。なぜなら、熱流 は非平衡状態においてはwell-definedでないからだ(た だし、僕の熱力学の教科書の13.8節に書いたように、溜を使って非平衡状態の熱流を定義すればうまくいく可能性はある)。そのためもあっ て、世の中で「熱流」の名でよく計算されているのは、ほとん どの場合、エネルギー流である。

 かといって、エネルギー流を採用する気にもなれない。なぜなら、非平衡熱力学があるとしたら、それは平衡極限で平衡熱力学に一致するはずだが、後者は、 エネルギー流を仕事流と熱流に分離したことが本質的だからだ。(だから、非平衡熱力 学も、エネルギー流を少なくとも2種類以上に分離しないといけないはずだが、その分離の仕方は現時点では不明である)。また、エネルギー伝 搬には、散逸流とは無関係な寄与が伴うことが多い(**)が、それと(我々が着目したい)散逸流に伴う寄与を分離するのが、線形応答領域を越える非平衡状 態では難しくなってしまう。

 そこで、平衡・非平衡を問わずにwell-definedな流れである、電流または質量流(非相対論的な理論では両者は比例する)を採用することにし た。つまり、(i)の条件を満たす最も簡単なモデルは、電流または質量流が 流れるモデルでないといけない。(たとえばス ピン流にも、エネルギー流のような難しさがある。)

 それならば、(不純物のない)容器に入った粒子系のモデルでいいね、と思われるかもしれない。しかし、それも採用する気にならなかった。なぜなら、その ような系では、並進 対称性があるために、線形応答理論がそのままでは適用できないからだ。線形 応答理論を越える非平衡の理論を探求したいのだから、最低限、線形応答理論が何の不安も曖 昧さも無く、普通に適用できる系でなければならないと思うのだが、そのような系では、この条件が満たされていない。もちろん、左右の壁をス トッパーにして並進対称性を破ったり(この場合、左右の壁の間際が特異的 な状態になってしまう)、あるいは、流れとともに動く座標系で見るなどして(それ でいいのかどうか怪しいが)、線形応答理論が適用できるようにすることは可能ではあるが、そんなに無理をしないと線形応答理論が適用できな いような系(モデルの特殊性が、すでに 線形応答領域から出てしまっている系)で、 線形応答を越える非平衡状態という未知の領域を調べるのは、危険すぎないか?

 また、そういう系で十分な大きさの非線形応答を出そうとすると、対流が起こってしまったりする。モデルが簡単すぎるために、均一な非線形非平衡状態とい うminimal な物理が調べられなくなっているわけで、簡単= minimalではない、ということの典型例になっている。

 もちろん、driven lattice gasのようなモデルも、ここに書いたような理由 で、採用する気にならない。

 また、ブラウン運動する粒子が外場により緩やかなポテンシャル中を運動するというモデルも、minimal modelにはなり得ない。そのようなモデルでは、ブラウン粒子の内部 自由度を無視するだけでなく、ブラウン粒子に作用するランジェバンノイズは平衡状態と同じものを仮定してしまうために、平衡系(平衡ランジェバンノイズを受けるブラウン粒子)が、緩やかなポテンシャルを登ったり降 りたりしているだけだからだ。ポテンシャルよりもさらに長いスケールでのみ、見ようによっては非平衡状態っぽく見えるのだが、少し下のス ケールを見れば全て平衡状態と同じであり、僕が研究したい、マ クロスケールからメゾスケール まで全て平衡状態とは違っているような本格的な非平衡状態とはまった く違うのだ。

長くなったので、この続きは「非平衡状態の標準モデル(2)」に書きます。

(*) その気になれば、必要なテクニックは揃っているようにも思うのだが、ある実験家に「あれとこれのテクニックを使えば測れるはずだから測ってよ」と言った ら、「それで面白い事が見えるんだという理論があればいいが、そういうものが無い時点で苦労する気にはなれない」と言われた。うん、ごもっとも。理論屋と しては、まずそういう実験によって自然現象を見て、それからゆっくり考えたいのだが、実験家は、まず面白い理論的予言があったときに、それを実験で見たい のだ。その気持ちはよくわかります。

(**) わかりやすい例は、固体の右端を押して左端にくっつけた物体に対して仕事をさせることである。散逸流がどこにもないのに、右端から左端へとエネルギーが伝 達されている。「こ の例は極端すぎる!」と言う人もいるだろうが、これは、ここ にあげた例のある種の極限になっているのである極限(極端な例)を押さえておけば、現実的なケースの複雑さに幻惑されずに済む。