量子統計力学の深奥 その1

熱揺らぎとは何か?

first appeared: 2011/08/26, last update: 2011/09/08

今、長年やってきた統計力学の講義ノートを、「統 計力学の基礎」という本にする作業をしている。例によって、教科書にするからには、講義で触れなかった深い話も、(僕の本を読んだことがある方な らご存じの)「スペードマーク」を付けた節に書く方針である。

こうした深い話というのは、どの教科書にも論文にも書いてなかったり、書いてあったとしてもきわめて不十分・不正確なことが多い。だから、友人の物理学者 たちに相談したりしながら、自分の頭でいろいろと考えるわけだが、しばしばその内容は、既知の物理学の整理にとどまらず、新しい発見になってくることすら ある。(「熱力学の基礎」の時は、そういう話をひとつ論文にして出版したこともある)。

「統計力学の基礎」も、「スペードマーク」ネタは尽きない。そのうちのいくつかを、雑記帳に書くことにした。その手始めとして、杉浦君との研究でわかってきた事を少しずつ書く。その第一弾は、熱揺らぎとは何か?である。

(これはつまり、量子統計力学の深奥その1の中の、杉浦君との研究ネタ のその1。)

量子統計力学では、通常は、熱平衡状態をミクロカノニカル集団などの密度演算子で表す。それは、エネルギー固有状態\( | n \rangle \)を用いると、
\[
\rho = \sum_n w_n \, |n\rangle \langle n|   \mbox{(\( w_n \) は非負定数) }
\]
と表せる。これは、量子論的には、純粋状態ではなく混合状態である。そこで、物理量の揺らぎを、個々の純粋状態 \( | n \rangle \) が持つ揺らぎと、それらを確率 \( w_n \) で混合したことによる揺らぎとの、2つの部分からなる、と考えることが多い。

具体的には、たとえば磁化 \( M \) の揺らぎ\( \delta M^2 \)だったら、

\( \langle \delta M^2 \rangle  = \)  熱平衡状態状態における揺らぎ
            \( = \) 状態 \( \rho \) における揺らぎ

を、

\( \langle \delta M^2 \rangle_q := \)  個々の純粋状態\( |n \rangle \)が持つ揺らぎ \( \langle n | \delta M^2 | n \rangle \) を確率 \( w_n \)で平均したもの

と、

\( \langle \delta M^2 \rangle_m :=  \langle \delta M^2 \rangle - \langle \delta M^2 \rangle_q \)
              \(  =  |n \rangle \) を確率 \( w_n \)で混合したことによる揺らぎ

のように分けて考え、\( \langle \delta M^2 \rangle_q \) を「量子ゆらぎ」(の平均値)、\( \langle \delta M^2 \rangle_m \) を「熱揺らぎ」と呼ぶのが一般的だろう (バリエーションはあるが、本質的にはこれと同様だろう)。

ところが、量子系の密度演算子を、純粋状態の混合として表す仕方は、 一意的ではない。つまり、\( |n \rangle \) を重ね合わせて作った適当な純粋状態 \( |t \rangle \) を用いて、
\[
\rho = \sum_t w_t \, |t \rangle \langle t |   \mbox{(\( w_t \) は非負定数) }
\]
とも表せるのだ(ただし、\( w_t \) の値の分布は、\( w_n \) の値の分布と同じになる)。\( \rho \) そのものは全く変わっていないが、それを具体的に表した形だけが異な る。そのため、\( \langle \delta M^2 \rangle \) は上と変わらないが、この形を用いて定義した「量子ゆらぎ」と「熱揺らぎ」の大きさは、上とは異なってくる。

従って、量子統計力学においては、「熱揺らぎ」というの は、well-defined な量ではなく、ρの表し方(純粋状態への分解の仕方)に依存して変わってしまう量な のである

この結論も意外かもしれないが、真に驚くべき事は、杉浦君と発見した次の事実である:

純粋状態|t>をうまく構成すれば、有限温度の熱平 衡状態における揺らぎを、すべて量子ゆらぎに押し込めることができて、熱揺らぎをゼロにできる! つまり、通常の(上記の)意味の量子ゆらぎと熱揺らぎの両 方を、量子ゆらぎとして含むような、純粋状態|t>を構成することができるのだ。

その結果、有限温度の熱平衡状態を、混合状態であるカノニ カル集団などの密度演算子ではなく、たったひとつの純粋状態で表すことができてしまう。その意味 は、

あらゆるマクロ変数について、その平衡値だけでな く、揺らぎや相関関数まで、たったひとつの純粋状態で正しく計算できてしまう


ということである。

注意: よく知られた、「対象系だけでなく熱浴を含む大きな系を考えれば、純粋状態で平衡状態を表せる」という類いの事とは全く違います対象系だけのヒルベルト空間の純粋状態で表せるのです。

注意: これはもちろん、統計力学ですから、可観測量をマクロ物理量に限 定したときの話です。2点相関関数も、 実は、マクロ物理量の2次相関として表せるので、これに当てはまります。

注意: 対象系の中の小さな部分系におけるマクロ変数のゆらぎならば、 \( |n \rangle \)で計算しようが \( |t \rangle \)で計算しようが(圧倒的な確率で)同じになることが示せますが、ここで論じているのは、対象系全体におけるマクロ変数のゆらぎです。ですので、無限 系の理論に登場する、熱平衡状態を状態ベクトルで表したものとも違います。

マクロ変数の平衡値がひとつの純粋状態(typical state? archetypal state? --- 名前を募集中)で正しく計算できるというだけならば、僕の講義ノートや田崎さ んの統計力学の教科書で勉強した人ならば、驚きはしない(そうでない人は驚くか もしれないが)。しかし、そういう純粋状態は、(対象系全体の)揺らぎや相関関数については、一般には正しい値を与えない。熱揺らぎの分だけずれてしま う。

ところが、杉浦君と僕は、熱揺らぎまで完全に取り込んだ純粋状態(いわば、most typical state among many possible typical states)を構成できることを見つけたのだ。

しかも、そのような純粋状態を 具体的に求める手段まで見いだしたのだが、それについては次回。