量子統計力学の深奥 その2

量子統計力学の新しい定式化

first appeared: 2012/03/26

杉浦君との研究に触れた前回の雑記からずいぶんと時間が空いてしまったが、その後、理論も進化し、また、従来の理論との関係も明らかになった。

(大きな声では言えないけど、僕は、理論を作り上げた後でないと、従来の理論を調べることをほとんどしないのです。。。面倒だから。でも、院生までその真似をしなくてもいいと思うんだけど。。。)

僕が駒場で統計力学の講義を始めてから、十数年経つ(ときどき、講義をしない年もあったが)。その何年目にあたるのか忘れたが、田崎さんとばったり会って、こんな会話を交わした。

この田崎さんの「雑感」ではエルゴード性のことしか触れていないが、「じゃあ何が統計力学の本質なんだ?」ということになれば、当然、「等重率や統計アン サンブルだって本質を外している」ということになる。で、「この誤解を追放すべくがんばるのがぼくらの使命(のひとつ)であろう」ということになったわけ だが、その後、田崎さんはちゃんと統計力学の本を出版されたのに、僕は未だに執筆中で、多くの方々に催促されている。。。ごめんなさい。

それは置いておいて、エルゴード性も等重率や統計アンサンブルも統計力学の本質じゃないとすると、何が本質か?

それは、まず第一に、ボルツマンの公式 S = log W である。(学部生への注:理論では、ボルツマン定数が1になる単位系を使う)

実は、統計力学の本来の役割である、

熱力学の基本関係式(S=S(U,V,N)など)をミクロ理論(量子力学や古典力学)から計算することを可能にし、それにより、ミクロ理論の知識さえあれば、マクロ変数の平衡値も、異なる平衡状態の間の遷移規則も判るようにする

に必要なのは、ボルツマンの公式だけである。基本関係式さえ求まれば、後は熱力学に丸投げすれば、全て予言できるからだ。

じゃあ、等重率や統計アンサンブルはどこで必要かというと、熱ゆらぎという、本来の熱力学(=平衡状態のその間の遷移規則の理論)の守備範囲からはみ出し た現象を扱うときに、ボルツマンの公式だけでは足りないのを補っているのである。具体的には、アインシュタインが、ミクロ理論から熱力学の基本関係式を求 める公式 S = log Wをひっくり返して、熱力学の基本関係式からミクロ状態数を求める公式 W = exp(S) にしたのであるが、さらにこれをゆらぎと結びつけるのに、等重率が必要なのである。

つまり、通常の統計力学の基本原理は、次のようになっている:(A, B の順序がおかしいって?だって、ボルツマンはBでしょう!)

B. ボルツマンの公式
A. (ゆらぎなども扱えるようにするために)等重率と統計アンサンブル

(エルゴード性が本質を外していることに関しては、杉田さんの解説や、田崎さんの教科書をご覧ください。しめしめ、僕はこれについて書く必要がなくなったぞ!)

さて、上で、「等重率や統計アンサンブルも統計力学の本質じゃない」と述べた。ということは、Aを別のものに置き換えられるということだ。それは、「統計アンサンブルの中のどのミクロ状態も、圧倒的な確率で、同じ平衡状態の性質を示す」という原理である。詳しく言うと、僕の講義ノートの要請A0である。これを認めれば、(Aを正確に言い直した)要請Aも直ちに導けるので、こちらの方が本質なのである。

この要請A0の一部分を量子論から証明したのが、杉田さんのお仕事である(他の人の関連論文は読む必要はない。これが最も優れた証明である)。ただし、もちろんこれで、要請A0が完全に証明されたわけではなく、一番難しいところは相変わらず未証明である(スライド参照)から、要請A0は相変わらず「定理」ではなく「要請」だ。

すると、統計力学の基本原理は、本質的には、次のようになる(実際、僕の講義ノートは、このようになっている):

B.ボルツマンの公式
A0.(ゆらぎなども扱えるようにするために)統計アンサンブルの中のどのミクロ状態も、圧倒的な確率で、同じ平衡状態の性質を示す

要請Aが言うような、アンサンブルやそれに対応する量子力学的混合状態は不要で、要請A0が言うように、1個の量子力学的純粋状態でよいのだ。

そうは言っても、相変わらず、Bのボルツマンの公式(あるいは、それのカノニカルアンサンブル版であるF = - T log Z など)は、絶対に必要な「要請」というか基本原理になっている。

その意味では、僕の講義ノートの統計力学の基本原理も、本質的には、通常のものと大きな違いはない。

ところが、杉浦君と僕は、A0をより詳しく研究するうちに、Bまで新しい原理に置き換えられることに気づいたのだ。

A0が言う、統計アンサンブルの中の適当な量子力学的純粋状態を、具体的に構成しようとすると、杉田さんが与えた状態では構築が非常に困難である。そこで 我々は、別のクラスの純粋状態を考え出したのだが、その状態はなんと、エネルギー期待値を計算すると温度が判ってしまう、という著しい特徴を持っていた。 (たった1個の量子力学的純粋状態から温度が判る!

温度がエネルギー(密度)の関数として求まれば、エントロピーも求まり、基本関係式が求まる。従って、ボルツマンの公式も不要になって、統計力学の基本原理を、次のように書き換えることができたのである:

A0.統計アンサンブルの中のどのミクロ状態も、圧倒的な確率で、同じ平衡状態の性質を示す
B0.1個の量子力学的純粋状態から温度を求める公式

こうして我々は、量子統計力学のまったく新しい定式化に成功した(もちろん、通常の統計力学の結果と一致する、ということの証明には通常の公式を使ったが、いったん証明されればそれらは不要)。

さらに、「まったく新しい定式化」なんていうものは、普通は実用性に乏しいことが多いのだが、我々の定式化は、非常に実用性が高いのだ。つまり、(従来の定式化に沿って考え出された)従来の計算方法ではとても計算できないような系の統計力学的性質を計算できるようなのだ。

詳しいことはいずれ書きますが、.専門的な知識がある方は、KEKにおける講演スライドと、論文をご覧ください。